不動産コンサルティングの住宅比較株式会社

スタッフブログ

2022.11.08

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑧を読んで

【本文】

都立日比谷高校には大学受験の浪人生が通う「補習科」が置かれていた。一種の予備校である。高校時代は思う存分遊び、受験勉強は卒業後に必死にやれば何とかなるという風潮があった。受験浪人は当たり前で、私たちはその補習科に通っている先輩たちを「4年生」と呼んでいた。ちなみに、私が大学受験した1966年の日比谷高校の東大合格者数は128人。現役合格者は少なく、その多くは「4年生」、すなわち浪人生だったように思う。…

【感想】

大切なことは一つの目標に向かい一所懸命に努力できるか否かということ。そして頭だけではなく、心(ハート)で考えることができるか、である。

著者のように努力いたします。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.07

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑦を読んで

【本文】

私が高校を受験した1963年当時、都立高普通科の入試は学区合同選抜制の下で実施されていた。島しょ部を除く都内を9学区(第7~9区は一体化されていたので実質7つの学区)に分け、それぞれの高校が学区内の中学生を選抜する。第1学区(千代田、港、品川、大田各区)だった私は日比谷高校を目指し、入学試験に無事合格した。日比谷高校の歴史をたどってみると、私が入学した63年度の新1年生から、それまで1学年400人だった定員が470人に、8学級のくらすも9学級にそれぞれ増えている。…

【感想】

自主性を重んじる日比谷高校に入学し、文化祭やさまざまなことで生徒自らがすすんで作り上げていくことを実感し、今の著者を形成しているのだろう。

お客様の住まいをご提案する上で、お客様のご希望だけを聞いているだけでは、決して良いご提案はできません。想像力をはたらかせて

お客様を感動させるコチラからの提案をしてまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.06

日経新聞 ~住宅ローン膨張~

本日の日経新聞の記事にて、住宅ローンの融資残高の膨張過去最大になっている記事がございました。

米国ではローン以上に資産価値が向上し、売却すれば負債がなくなる可能性が高いが、日本では資産価値の伸び率が小さい。米国では中古市場が強く、住宅を『資産』となっているが、日本では『消費財』となっている。

日本は人に融資する傾向が強い 収入があれば融資は伸びる

今後中古市場を成長させることを考えていくと、融資が受けれてしまう状況からの変化の可能性が感じられ、その状況になると融資に対する審査が厳しくなるのではないかと感じました。

お客様へのリスクをご提案いたします。

住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉

2022.11.06

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑥を読んで

【本文】

田園調布中学校に入学したのは1960年4月。当時安保闘争で世情騒然としていたはずだが、中学生だった我々は影響を受けることはなかった。また、数年後の私の大学時代には、70年の安保条約改定をにらんだ全共闘による大学紛争が吹き荒れ、一般学生の日常にも大きな影響を及ぼすのだが、そんな未来を知る由もなかった。東京での生活は2年ぶりだった。自分では使い慣れた標準語を喋(しゃべ)っているつもりだったが、ある日国語の先生から「宮本、おまえには関西なまりがある」と言われ、驚いてしまった。…

【感想】

苦手だった体育も、影で努力をして克服した、課題を克服していく習慣が会社経営にも生かされてきたのだと思います。

私も苦手なマイホームFPを繰り返しの練習で克服し、お客様のマイホーム取得のために活かしてまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.05

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑤を読んで

【本文】

とりわけて印象深く忘れ難い恩師が2人いる。1人は大学の卒論の研究室で指導教授だった内田祥哉先生、もう1人は小学校5、6年のクラス担任だった大矢正先生である。内田先生については後の回に譲り、今回は大矢先生の思い出から筆を進めたい。父の転勤先の岐阜で伊勢湾台風に遭遇したことは初回に記したが、転入した岐阜市立加納小学校で私を迎えてくれたのが大矢先生。軍隊上がりで規律に厳しく、授業中にお喋(しゃべ)りをやめないとチョークが飛んできたり、バケツを持ち廊下に立たされたりした。…

【感想】

著者の履歴から、小学6年の時、学校新聞の編集長をやった経験などが今日の礎にもなっているのだと感じました。年齢を重ねても、自分だけのことを考えるのではなく、しっかり会社、部下の事を考え、社会人としての指導を徹底してまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.04

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一④を読んで

【本文】

終戦から2年後に生まれた私はいわゆる「団塊の世代」である。戦後の混乱は収まらず、食糧事情は逼迫していたようだ。後に両親から聞いた話では、京都まで汽車に乗り父の実家に食べ物の調達に行ったり、嫁入りの際に母が持ってきた着物を米と交換したりしたこともあったという。幼少期のホームタウンは東京・杉並の宿町(しゅくまち)(現在の桃井、善福寺、上荻、西荻北の一部)。当時周辺は畑や田んぼが広がって農家の馬車も通り、道によく馬糞が落ちていた。…

【感想】

「団塊の世代」を生きた著者は、父親の行動を見て、自分も同じ行動をとっていることに気づく。私も父と同じ行動をとっていたなと思いました。

著者の育った、荻窪・西荻窪を週末お客様をご案内するので、お客様に語れるよう調査します。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.03

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一③を読んで

【本文】

半世紀を超えるビジネスマンライフの中で印象深い赴任地の一つに九州がある。社長就任の直前の2年間、九州支店長として福岡市に居を構えた。明るく開放的な土地柄で、この上なく居心地が良かった。思えば、私と九州は縁が深い。母・さだ子は大牟田の出身で、その父(私からは祖父)は熊本県北部の山鹿の出身で、菊池族の流れの漢塾の家系であったらしい。手漉(す)きの和紙と糊(のり)で作る美しい「山鹿灯籠」で知られる山間部の街である。…

【感想】

著者の父親も家で仕事のことはほとんど口にしない、生きていくうちに父の偉大さに気付く。思えば私の父もそうだった。父の背中を見て育ったような記憶がある。上京して、会う機会、話す機会も少なくなったが、精神的な支えになっていたような気がする。私も子供達に仕事のことは口にしないが、のちに支えになるような親でありたい。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.02

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一②を読んで

【本文】

守屋東(もりやあずま)という女性をご存知だろうか。1908年、24歳で日本キリスト教婦人矯風会の会員となり、肢体不自由児教育や廃娼運動に力を注いだ社会活動家である。「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子を陰で支えた親友としても知られる。その守屋が開校した大東学園の付属病院(東京・上野毛)で47年5月16日、私は父・和男、母・さだ子の長男として生まれた。守屋は両親の仲人であり、私の名付け親でもあると父は話していたが、この社会活動家といかなる経緯でそんな縁ができたのか、残念ながら聞き逃した。…

【感想】

全国で深刻な社会問題の空き家対策を著者も実体験から真剣に考えたのだろう。お世話になった町に寄付し、若者たちの新しい文化に活用され、見事に再生した。コロナ禍で休業中らしいが、活動再開したら訪れてみたい。

2022.11.01

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一①を読んで

【本文】

「台風や地震の時、あなたはいつもいないのよね」連れ添って40年余り。家内から耳の痛い台詞(せりふ)を何度か聞かされた。仕事柄じっとしていられず、弾かれたように飛び出していく私の姿を家内はどう見ていたのだろうか。私の災害の原体験は伊勢湾台風。1959年9月26日、和歌山県に上陸した台風15号は東海、北陸へ日本列島を縦断。強風と高潮で甚大な被害が発生し5000人超の死者・行方不明者を出した。当時私は小学6年生。前年に春、わが家は東京から岐阜市に転居し、市内近島の木造住宅で暮らしていた。…

【感想】

日本を代表するゼネコンでの歩んできた道を1ヶ月間参考にさせていただきます。災害大国日本で被害者を出さないための使命感をもって、仕事に邁進してきたのだろう。私もお客様に幸せな家に住んでもらう想いは忘れずに仕事をしてまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

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