不動産コンサルティングの住宅比較株式会社

スタッフブログ

2022.11.11

日経新聞 私の履歴書宮本洋一⑪を読んで

【本文】

卒論で同じテーマを選んだ同級生が2人いた。彼らとは今も親交が続く。福岡県出身の鳥巣元太君は竹中工務店勤務後に設計事務所を立ち上げ、北海道出身の石川哲男君は一緒に清水建設に入社した。彼らと都内の住宅地を回り「家の中でケガをしたことはありませんか」「どんな状況でしたか」「階段の蹴上げや踏み面の寸法は?」といった質問のアンケートを実施。集めたデータは膨大で分析・執筆に多大な時間を要した。…

【感想】

50年以上前に友人と都内の住宅地を回り、居住空間での事故をアンケートデータを収集、住まいの安全について考えていたことに感銘しました。住宅比較株式会社の土地と建物のトータル提案ですので、住宅の知識も蓄積していきます。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.10

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑩を読んで

【本文】

東大音楽部合唱団コールアカデミーの訪欧団は温かく迎えられた。当時の西ドイツの首都ボンや南部バーデン=ヴュルテンベルク州のトロッシンゲン、そして「音楽の都」であるオーストリアのウィーンなど各都市で公演し、現地の大学との交流も行われたと記憶している。1970年3月6日、17日間の日程を終え、無事羽田空港に帰着した。音楽部の訪欧公演は大成功と讃えられ、幕を閉じた。余談だが、この時から2年前の68年春に西ドイツのミュンスター大学の訪日団が来日していた。…

【感想】

体制を壊すといってもその後に何をつくるのか考えていない…。仕事でも目先のことだけやるのではなく、先を予測して準備をして行動することが大事と思いました。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.09

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑨を読んで

【本文】

音楽好きは物心ついた頃から。ラジオでクラシック音楽をよく聴いていた母の影響かもしれない。その母の末の妹である叔母の博子はピアノが上手で、幼い頃、彼女の伴奏で従姉妹と童謡を歌ったのを覚えている。中学生になる頃には映画音楽が好きになり、ジョン・フォード監督の「駅馬車」やジョン・ウェイン監督・主演の「アラモ」など西部劇に心を奪われ、ラジオで聴いて覚えた挿入歌を遠足のバスの中で友だちと歌ったこともあった。…

【感想】

ここにも著者の何事にも全力で一所懸命打ち込む一面が垣間見れたと思いました。

私も空地空家調査で地主様とお会いする機会も多いため、個々に違ったアプローチ方法、話題作り、ご提案など、視野を広げるため、仕事以外で全力で打ち込む趣味を幅広く持ちたいと思いました。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.08

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑧を読んで

【本文】

都立日比谷高校には大学受験の浪人生が通う「補習科」が置かれていた。一種の予備校である。高校時代は思う存分遊び、受験勉強は卒業後に必死にやれば何とかなるという風潮があった。受験浪人は当たり前で、私たちはその補習科に通っている先輩たちを「4年生」と呼んでいた。ちなみに、私が大学受験した1966年の日比谷高校の東大合格者数は128人。現役合格者は少なく、その多くは「4年生」、すなわち浪人生だったように思う。…

【感想】

大切なことは一つの目標に向かい一所懸命に努力できるか否かということ。そして頭だけではなく、心(ハート)で考えることができるか、である。

著者のように努力いたします。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.07

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑦を読んで

【本文】

私が高校を受験した1963年当時、都立高普通科の入試は学区合同選抜制の下で実施されていた。島しょ部を除く都内を9学区(第7~9区は一体化されていたので実質7つの学区)に分け、それぞれの高校が学区内の中学生を選抜する。第1学区(千代田、港、品川、大田各区)だった私は日比谷高校を目指し、入学試験に無事合格した。日比谷高校の歴史をたどってみると、私が入学した63年度の新1年生から、それまで1学年400人だった定員が470人に、8学級のくらすも9学級にそれぞれ増えている。…

【感想】

自主性を重んじる日比谷高校に入学し、文化祭やさまざまなことで生徒自らがすすんで作り上げていくことを実感し、今の著者を形成しているのだろう。

お客様の住まいをご提案する上で、お客様のご希望だけを聞いているだけでは、決して良いご提案はできません。想像力をはたらかせて

お客様を感動させるコチラからの提案をしてまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.06

日経新聞 ~住宅ローン膨張~

本日の日経新聞の記事にて、住宅ローンの融資残高の膨張過去最大になっている記事がございました。

米国ではローン以上に資産価値が向上し、売却すれば負債がなくなる可能性が高いが、日本では資産価値の伸び率が小さい。米国では中古市場が強く、住宅を『資産』となっているが、日本では『消費財』となっている。

日本は人に融資する傾向が強い 収入があれば融資は伸びる

今後中古市場を成長させることを考えていくと、融資が受けれてしまう状況からの変化の可能性が感じられ、その状況になると融資に対する審査が厳しくなるのではないかと感じました。

お客様へのリスクをご提案いたします。

住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉

2022.11.06

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑥を読んで

【本文】

田園調布中学校に入学したのは1960年4月。当時安保闘争で世情騒然としていたはずだが、中学生だった我々は影響を受けることはなかった。また、数年後の私の大学時代には、70年の安保条約改定をにらんだ全共闘による大学紛争が吹き荒れ、一般学生の日常にも大きな影響を及ぼすのだが、そんな未来を知る由もなかった。東京での生活は2年ぶりだった。自分では使い慣れた標準語を喋(しゃべ)っているつもりだったが、ある日国語の先生から「宮本、おまえには関西なまりがある」と言われ、驚いてしまった。…

【感想】

苦手だった体育も、影で努力をして克服した、課題を克服していく習慣が会社経営にも生かされてきたのだと思います。

私も苦手なマイホームFPを繰り返しの練習で克服し、お客様のマイホーム取得のために活かしてまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.05

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑤を読んで

【本文】

とりわけて印象深く忘れ難い恩師が2人いる。1人は大学の卒論の研究室で指導教授だった内田祥哉先生、もう1人は小学校5、6年のクラス担任だった大矢正先生である。内田先生については後の回に譲り、今回は大矢先生の思い出から筆を進めたい。父の転勤先の岐阜で伊勢湾台風に遭遇したことは初回に記したが、転入した岐阜市立加納小学校で私を迎えてくれたのが大矢先生。軍隊上がりで規律に厳しく、授業中にお喋(しゃべ)りをやめないとチョークが飛んできたり、バケツを持ち廊下に立たされたりした。…

【感想】

著者の履歴から、小学6年の時、学校新聞の編集長をやった経験などが今日の礎にもなっているのだと感じました。年齢を重ねても、自分だけのことを考えるのではなく、しっかり会社、部下の事を考え、社会人としての指導を徹底してまいります。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

2022.11.04

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一④を読んで

【本文】

終戦から2年後に生まれた私はいわゆる「団塊の世代」である。戦後の混乱は収まらず、食糧事情は逼迫していたようだ。後に両親から聞いた話では、京都まで汽車に乗り父の実家に食べ物の調達に行ったり、嫁入りの際に母が持ってきた着物を米と交換したりしたこともあったという。幼少期のホームタウンは東京・杉並の宿町(しゅくまち)(現在の桃井、善福寺、上荻、西荻北の一部)。当時周辺は畑や田んぼが広がって農家の馬車も通り、道によく馬糞が落ちていた。…

【感想】

「団塊の世代」を生きた著者は、父親の行動を見て、自分も同じ行動をとっていることに気づく。私も父と同じ行動をとっていたなと思いました。

著者の育った、荻窪・西荻窪を週末お客様をご案内するので、お客様に語れるよう調査します。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

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