スタッフブログ
日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(16)

マシントラブル
リタイア6回 予選落ちも 鈴鹿の決勝前 母の死も打撃
ロータス2年目の1988年は、とにかくマシンのトラブルに泣かされた。挙げたドライバーズポイントは開幕戦のブラジルGPの1点(6位入賞)だけ。1桁の順位で6回完走したが、第11戦のベルギーからの4戦連続を含めリタイア6回、初の予選落ちもモナコで味わった。
F1を1年戦って僕はコースに慣れ、車(ロータス100T・ホンダ)も熟成が進むはず。周りの期待をひしひしと感じていたのだが……。
周囲の方が応援、期待していただいているにもかかわらず成果が出ない、期待を裏切る。結果がなければ認められることもないと思います。
記事を読みこの状況を打開するために何が必要かもがき続けて抜け出すことが成長だと思いました。
お客様に対しても問題に対してもがき続け、進んでいきたいと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
以前の 私の履歴書 堀威夫氏 を読んで
本日は休刊日でしたので、以前の私の履歴書から書かせて頂きました。
ホリプロ創業者・堀威夫さんはバンドマン出身で、ホリプロを起業してからは歌手の守屋浩、舟木一夫を世に送り出し、グループ・サウンズのブームをしかけ、ザ・スパイダースを一躍人気者にします。和田アキ子、森昌子、山口百恵らをスターとして育て上げ、榊原郁恵主演のミュージカル「ピーターパン」をきっかけに演劇界にも進出します。東京の芸能プロダクションとしては初めてとなる株式公開も果たし(東証1部上場後、上場廃止)、芸能ビジネスの企業化に尽力しました。「若気の至り」が原動力だという堀さんの人生は戦後の芸能史そのものであり、現在の芸能界の礎だといえるでしょう。

いつも青春
井上・蜷川コンビと夢実現 亡き演劇人の望み 見届けたい
ホリプロ本社の玄関には、井上ひさしさん直筆の言葉が掲げられている。
「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」
1980年代半ばのこと、月刊誌で井上さんの書斎にこの言葉が張り出されているのを見た。我が意を得たりとすぐ電話した。「誰の言葉ですか」「僕のです」。
記事の言葉に惹かれ、書かせて頂きました。表現の考え方・相手への伝え方・伝わり方、如何に相手に理解してもらえ、興味を持っていただけるかがポイントであることを感じました。
伝え方も伝わり方も多種多様、正解はなく、自身の思う様に相手に伝われば正解、自身の思う以上に感じていただければ成功なのではないかと感じました。
お客様・上司・同僚・家族・知人・友人へ伝えたいことが伝わっているか、相手の意を理解し、どうしたら理解しやすくできるだろうか、自身の伝え方は正しかったのだろうかと常に振り返る様にしていこうと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(14)

肉体強化
非力痛感し科学的鍛錬 全レースにトレーナー帯同
F1初挑戦が終わったオフはオーバーホールと2年目の準備に充てた。フィットネスのメニューは東海大体育学部の田中誠一教授(当時)に組んでもらった。
田中先生の指導を受けるようになったのは、生沢徹さんとともに戦った1980年ごろまで遡る。当時の先生はホンダの2輪チームの面倒を見ていて、生沢さんからホンダの入交昭一郎さんとツテをたどり、僕も門下生になった。
根性論を排した化学的なフィジカルトレーニング、ジョギングが日課になった頃、トレーニングには最先端の機器が使われていた。
現状の自分の把握、現状の自分の分析、基礎と基本をしっかりと理解していいることが重要と感じました。非力であることを痛感し、必要なことは何かを考え、実践し継続することが当たり前になる。
中嶋氏の様な方々はこういったことが当たり前になっていると感じました。
自分を変えることでお客様、周囲の方への良い影響を与えられる様に変わっていきたいと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(13)

鈴鹿へ凱旋
取材殺到 声援に胸熱く 観戦する家族の前で6位入賞
凱旋というと変だが、F1第15戦(1987年11月1日決勝)を走るために日本に帰ったら、1月に英国に向けて出発した時とはえらい違いの騒ぎになっていた。日本を留守にした間に「時の人」みたいになり、レース本番までの間、取材が殺到して目が回る忙しさだった。
移動はほとんど車の僕は高速道路をよく利用する。サービスエリアでトイレに行ったら、周りに気づかれて大変なことに。
周囲の方が認める方、結果を出している方はいるだけで周りへ影響を与えることができると感じました。
良い意味での影響、悪い意味での影響ありますが、中嶋氏の様に良い影響を与える人になりたいと思います。一つ一つの約束を守ること、当たり前にできなければならないことを確実丁寧に行い、周りよりも努力していくことで周囲からの信頼・味方・反応・対応は変わっていくと感じました。
丁寧にやり切り、努力することを継続していける人になりたいと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(12)

英国GP
知ったコース 満足の4位 低調続いた鬱憤晴らす
ブラジルのリオデジャネイロから欧州に戻ったら、体がやたら楽に感じた。
1987年5月の第2戦、サンマリノGPは、アクティブ・サスペンションのトラブルでピットスタートで始まりながら6位入賞。F1で初めてポイント1を挙げた。第3戦のベルギーGPはホンダ勢が全員リタイアする中で5位入賞。「俺ってひょっとしてうまい?」「運もいいな」と気分は悪くない。
第4戦のモナコGPで意気消沈する。
好きと得意は一緒じゃない。中嶋氏が成績が出せないコースとぶつかった時の話がありました。周りの方からコースのアドバイスをいただいてはいるが結果は出せず、苦手かというとそうでもない。中嶋氏がイメージするF1のコースとの差異が生じていたとのことでした。
常に考え、イメージを作っておくこと、準備・反省改善・スタート・反省改善・ゴール・反省改善とイメージを持って仕事に取り組もうと思いました。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(11)

初挑戦
ハンドル大型化し完走 疲れたレース 課題を痛感
F1初挑戦の1987年、僕が乗ったのはロータス99Tというニューマシンだった。車高や姿勢を燃料の残量などに関係なく、コンピューター制御で一定に保つアクティブ・サスペンションという革新的な技術を盛り込んでいた。それだけテストで煮詰める部分が大きく残されていた。
2月からテストを開始。車体は黄色のキャメルカラーが鮮やか。
中嶋氏の言葉で必要と考えていたものが想像の範囲を出ていなかったことを早速思い知らされた。実際に痛い目に遭ってこれも足りないと気付かされた。
10のことをやれといわれたら12をやらないとここでは戦えない。
こんなにも努力している方でさえ足りないとおっしゃっている、私は努力も準備も足りていない10やれと言われても10すらやらずにいる状況です。
まずは約束・納期を守り、もっと深く先まで想定した行動をできる様にしていきたいと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(10)

かなった願い
初レースから13年 F1へ ロータスの第2ドライバーに
目覚ましが鳴っても「あれ……。今、俺はどこにいるんだっけ。何をするために起きるんだっけ」。1986年はそんな朝の繰り返しだった。時差ボケなどころか、全部がすっ飛んでいる感じ。
この年、F3000の欧州転戦に備え、ロンドン近郊に引っ越した。日本のF2とホンダF1エンジンのテストを掛け持ちし、夏はルマン24時間耐久レースをトムス・トヨタで走ったりした。
疲れを通り越し楽しさを感じた。できることを最大限やりきった。
目標を達成している方は当たり前にやってやり続けています。私はやった、また後でと何かしらの理由をつけて最大限やったと誰からも言ってもらえる仕事をしていないと思いました。
やり切る仕事、最大限の仕事意識していこうと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(9)

希望と不安
夢を追って会社立ち上げ F1への思い胸に勝利重ねる
生沢徹さんに合流することは、それまで世話になったヒーローズ・レーシングの田中弘さんや松浦賢さんにさよならをすること。といっても簡単に欧州には行けず、活動の軸足は日本に置いたままだったから、「恩知らず」と業界内でたたかれた。
1979年から生沢さんと活動し、4年目にやっと欧州のF2をスポットで5レース走れた。表彰台に2位で一度上がったが、僕が望むフル参戦には程遠い状況だった。
新しい環境に飛び立つ、中嶋氏が新しい天地に行くために今までのチームを離れることが書かれておりました。新しい環境に行くこと、ステップアップ・自身のゴールのためにさらに成長するためにと多く理由・原動力があると思います。
もちろん今の現状をしっかりとできていて、先へ進んでも活躍できる実力ができていなければ、こんなことは考えられないと思います。
私も今の自分をしっかり見つめ、将来を考えた今を確実に丁寧に何事も行える様にし、成長したいと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(8)

英F3参戦
多重衝突も奇跡の無傷 日本と違うレース文化に感動
日本のF2選手権で初勝利を挙げた1978年、僕は人生を変える出来事を英国で味わった。上げ潮の僕を見込んだノバ・エンジニアリングの山梨信輔社長の発案で、ノバ製のFJ1300の車体にトヨタの2000ccエンジンを積み、夏に英国のF3レースに挑戦したのだ。
7月15日の最初のレース。ブランズ・ハッチのサーキットでスタート直後に発生した多重衝突に巻き込まれ、僕の車も派手に宙を舞った。
目指す先の世界を知る
中嶋氏がF1の世界を初めて見た時、ここにこないとレーサーの終着点はない・・・この世界、捨てたもんじゃないと感じF1を目指すことを決めたことが書かれておりました。
将来どうなりたいのか、なるために自分に今足りないものはなにか。今選択する行動は正しいのか、それをしっかりと考えなければならないと感じました。
自分の楽のため、今をやり過ごすではなく、自身の目指す姿に対しての判断ができる様になりたいと思います。
お客様に対しても、自身の行動の影響の強さを再認識していこうと思います。
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