スタッフブログ
般若心経 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
色声香味触とは、眼耳鼻舌身意の六根が感じる対象のことです。
六根の感覚器官がなければ、もちろん感じる対象もありません。
自分が感じたことだけを正しいと思い込み、その価値観を人に
押しつける人が時々ありますが、それは自分への執着によるこだわりです。
執着を捨てることからすべてははじまると、この経は説いています。
春日部店 赤松 誠
般若心経 無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)
私たちは眼と耳と鼻と舌と体と心とを使って、この世の成り立ちやらさまざまな現象を認識します。
その感覚器官は一定でなく、その時の条件でいつも揺れ動いています。正しい判断をしたとしても、
条件が変わるともう正しいとはいえません。感覚器官で認識したものだけにとらわれてはいけないということです。
般若心経 無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
受想行識がないということは、すなわち心という実体はないということです。
ある人が大成功をとげたとして、その出来事は一つなのに、ある人は嬉しく、
ある人は悔しく感じます。心というものは絶対的に固定されているのではなく、
立場によって感じ方がまったく変わるように、いつも揺れ動いているのです。
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般若心経 是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき)
空には形がある存在がないのですから、人を愛したり憎んだり、
物を貪ったりする心が生じるその根本の煩悩や、そのもっと本質であるところの無明には、
誰にもわかる形があるというような実体はないのです。すべての関係の中から生じてくるのですが、
実体もないものにとらわれることはないのです。
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般若心経(不増不減)
何かが増えたり減ったりするたび一喜一憂するのが、私たちの実際の暮らしです。
たとえばここに千円があったとして、千円もあると喜ぶ人と、千円しかないと悲しむ人がいます。
この世は空ですから、そのことで何も変わっていないのに、千円を心がどう感じるかによって、
幸福にもなれば不幸にもなるのです。
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般若心経 不垢不浄(ふくふじょう)
きれいとか汚いということは、すべての人の心が決めるもので、きれい汚いの実体があるわけではありません。
例題としてよく使われるのが、小便をいれたコップを煮沸消毒し、汚れを完全に拭い〔ぬぐ〕い去ってからビールを
つぐとします。知っていればビールは飲めません。コップを汚いと決めるのは、人の心だということです。
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般若心経 不生不滅(ふしょうふめつ)
生と死とが人生で最大の出来事です。
人はどんなに長生きしたところで必ず死を迎え、死ぬのはもちろんそこまで生きてきたからです。
生を離れた死はないし、死を離れた生はありません。生も死もお互いの関係の中から生まれてくるのですから、
生と死だけのそれぞれ切り離された実態はありません。
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般若心経 是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
この世においては存在するすべてに実体がないのだから、人は、一箇所にとどまってはいません。
喜びも時の流れとともに消えてしまうのです。悲しみも時が忘れさせてくれます。
たえず新しい時が生まれ、生まれたとたん消えていくのです。
だからこそ、この瞬間瞬間を一生懸命に生きていかねばならないということです。
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般若心経 舎利子(しゃりし)
後に智慧第一と呼ばれる舎利子は、親友である日連(モッガラーナ)といっしょに、
お釈迦さまに帰依しました。舎利子は静かな瞑想の暮らしを好み、師のかわりに
説法をしたとされています。この二人はお釈迦さまより早く、
ほとんど同時に入滅しますが、師の入滅を見たくなかったからそうしたのだといわれています。
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