不動産コンサルティングの住宅比較株式会社

スタッフブログ

2022.11.06

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑥を読んで

【本文】

田園調布中学校に入学したのは1960年4月。当時安保闘争で世情騒然としていたはずだが、中学生だった我々は影響を受けることはなかった。また、数年後の私の大学時代には、70年の安保条約改定をにらんだ全共闘による大学紛争が吹き荒れ、一般学生の日常にも大きな影響を及ぼすのだが、そんな未来を知る由もなかった。東京での生活は2年ぶりだった。自分では使い慣れた標準語を喋(しゃべ)っているつもりだったが、ある日国語の先生から「宮本、おまえには関西なまりがある」と言われ、驚いてしまった。…

【感想】

苦手だった体育も、影で努力をして克服した、課題を克服していく習慣が会社経営にも生かされてきたのだと思います。

私も苦手なマイホームFPを繰り返しの練習で克服し、お客様のマイホーム取得のために活かしてまいります。

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2022.11.05

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一⑤を読んで

【本文】

とりわけて印象深く忘れ難い恩師が2人いる。1人は大学の卒論の研究室で指導教授だった内田祥哉先生、もう1人は小学校5、6年のクラス担任だった大矢正先生である。内田先生については後の回に譲り、今回は大矢先生の思い出から筆を進めたい。父の転勤先の岐阜で伊勢湾台風に遭遇したことは初回に記したが、転入した岐阜市立加納小学校で私を迎えてくれたのが大矢先生。軍隊上がりで規律に厳しく、授業中にお喋(しゃべ)りをやめないとチョークが飛んできたり、バケツを持ち廊下に立たされたりした。…

【感想】

著者の履歴から、小学6年の時、学校新聞の編集長をやった経験などが今日の礎にもなっているのだと感じました。年齢を重ねても、自分だけのことを考えるのではなく、しっかり会社、部下の事を考え、社会人としての指導を徹底してまいります。

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2022.11.04

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一④を読んで

【本文】

終戦から2年後に生まれた私はいわゆる「団塊の世代」である。戦後の混乱は収まらず、食糧事情は逼迫していたようだ。後に両親から聞いた話では、京都まで汽車に乗り父の実家に食べ物の調達に行ったり、嫁入りの際に母が持ってきた着物を米と交換したりしたこともあったという。幼少期のホームタウンは東京・杉並の宿町(しゅくまち)(現在の桃井、善福寺、上荻、西荻北の一部)。当時周辺は畑や田んぼが広がって農家の馬車も通り、道によく馬糞が落ちていた。…

【感想】

「団塊の世代」を生きた著者は、父親の行動を見て、自分も同じ行動をとっていることに気づく。私も父と同じ行動をとっていたなと思いました。

著者の育った、荻窪・西荻窪を週末お客様をご案内するので、お客様に語れるよう調査します。

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2022.11.03

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一③を読んで

【本文】

半世紀を超えるビジネスマンライフの中で印象深い赴任地の一つに九州がある。社長就任の直前の2年間、九州支店長として福岡市に居を構えた。明るく開放的な土地柄で、この上なく居心地が良かった。思えば、私と九州は縁が深い。母・さだ子は大牟田の出身で、その父(私からは祖父)は熊本県北部の山鹿の出身で、菊池族の流れの漢塾の家系であったらしい。手漉(す)きの和紙と糊(のり)で作る美しい「山鹿灯籠」で知られる山間部の街である。…

【感想】

著者の父親も家で仕事のことはほとんど口にしない、生きていくうちに父の偉大さに気付く。思えば私の父もそうだった。父の背中を見て育ったような記憶がある。上京して、会う機会、話す機会も少なくなったが、精神的な支えになっていたような気がする。私も子供達に仕事のことは口にしないが、のちに支えになるような親でありたい。

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2022.11.02

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一②を読んで

【本文】

守屋東(もりやあずま)という女性をご存知だろうか。1908年、24歳で日本キリスト教婦人矯風会の会員となり、肢体不自由児教育や廃娼運動に力を注いだ社会活動家である。「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子を陰で支えた親友としても知られる。その守屋が開校した大東学園の付属病院(東京・上野毛)で47年5月16日、私は父・和男、母・さだ子の長男として生まれた。守屋は両親の仲人であり、私の名付け親でもあると父は話していたが、この社会活動家といかなる経緯でそんな縁ができたのか、残念ながら聞き逃した。…

【感想】

全国で深刻な社会問題の空き家対策を著者も実体験から真剣に考えたのだろう。お世話になった町に寄付し、若者たちの新しい文化に活用され、見事に再生した。コロナ禍で休業中らしいが、活動再開したら訪れてみたい。

2022.11.01

日経新聞 私の履歴書 宮本洋一①を読んで

【本文】

「台風や地震の時、あなたはいつもいないのよね」連れ添って40年余り。家内から耳の痛い台詞(せりふ)を何度か聞かされた。仕事柄じっとしていられず、弾かれたように飛び出していく私の姿を家内はどう見ていたのだろうか。私の災害の原体験は伊勢湾台風。1959年9月26日、和歌山県に上陸した台風15号は東海、北陸へ日本列島を縦断。強風と高潮で甚大な被害が発生し5000人超の死者・行方不明者を出した。当時私は小学6年生。前年に春、わが家は東京から岐阜市に転居し、市内近島の木造住宅で暮らしていた。…

【感想】

日本を代表するゼネコンでの歩んできた道を1ヶ月間参考にさせていただきます。災害大国日本で被害者を出さないための使命感をもって、仕事に邁進してきたのだろう。私もお客様に幸せな家に住んでもらう想いは忘れずに仕事をしてまいります。

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2022.10.31

日経新聞 私の履歴書 西川きよし30を読んで

【本文】

「おはようございます」舞台が今も好きだ。客席と掛け合いでつくり上げる呼吸のようなものが、じかに感じられるのがいい。一方通行に偏りがちなテレビに比べ、影響力こそ限られるものの、舞台には無限の魅力がある。入場料を払って足を運んで下さるお客さんの「さあ、楽しませてもらお」という期待、なかにはその反対に「入場料を払った以上は、むやみに愛想笑いもするまい」という覚悟。そんな硬軟入り交じる空気をはかりながら「どう笑わせようか」と算段をめぐらせる。…

【感想】

人生、何事も「小さなことからコツコツと」学ばせていただきました。コロナ禍も下火になってまいりましたので、これからは、内に籠もるのではなく、外へ積極的に行動してまいります。謙虚さを忘れずに。

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2022.10.30

日経新聞 私の履歴書 西川きよし29を読んで

【本文】

「おい、少しつないでこい」演芸場で何かトラブルが生じて高座に穴が空きそうなとき、若い漫才師はこう頼まれたものだ。寄席の世界で漫才は古くから「つなぎの芸」とみられてきた。よく言えば漫才は融通が利く。演じる時間の長短を調節しつつ、次の出演者の出番まで客席が冷めないよう時間を稼ぐのに向いている。この特長を生かせたのが、ラジオやテレビの世界だ。草創期の放送界は、ぶっつけ本番の生放送が主流だったから、漫才師ならではの才能が重宝された。…

【感想】

著者が文化功労者に選出されたのは、誰もが認めていること。また、この人しかいないと皆様から思われていること。誰から見てもそう思われることは大変なことで、私も社内から、お客様からこの人だったらと、信頼される仕事をしてまいります。

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2022.10.29

日経新聞 私の履歴書 西川きよし28を読んで

【本文】

あるタクシーを降りるとき、どうしても料金を受け取らない運転手さんがいた。押し問答の末、ついに運転手さんが折れて事情を打ち明けた。「実は京都で刑務所にいたころ、慰問に来てくれたやすし・きよしさんに笑わせてもらったことがあって……。あのときのお礼に、ここはひとつ気分良くおごらせてや」その心づかいに胸がいっぱいになり、お言葉に甘えさせてもらった。芸人として慰問を続けて、はや50年以上になる。人生幸朗・生恵幸子さんに連れて行ってもらったのが最初だ。…

【感想】

「叱るなこども きた道 わらうな年寄り これから行く道」自分のものさしで判断せず、ひと呼吸おいてから、考え行動することにより、心遣いができる…。今日1日、お客様への接し方を変えてみます。

住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠

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